都内のIT企業に勤めるMさん(20代女性)は、一年前から完全リモートワークに切り替わった。
築年数の浅いワンルームマンション。
彼女の仕事机は、背後に白い壁がくるように配置されている。
生活感を隠すため、そしてWEBカメラに映る範囲を最小限にするための、彼女なりの工夫だった。
その夜、仕事のトラブルで急遽、深夜1時を過ぎてもオンライン会議が続いていた。
参加者はMさんと直属の上司、そして同僚のSさんの3人。
疲れ果てたMさんは、パソコンの青白い光に照らされながら、淡々と議事録を取っていた。
「…じゃあ、この修正案で進めるということで」
上司が話を締めくくろうとした、その時だった。
画面の向こうで、同僚のSさんが怪訝そうな顔をして身を乗り出した。
「…Mさん。後ろのドア、開いてるけど大丈夫?泥棒とかじゃないよね?」
Mさんは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「え?ドア…ですか?」
彼女の部屋は、玄関から居室まで一本の廊下で繋がっているが、机の真後ろはただの「壁」だ。
クローゼットの扉は左側にあり、カメラの画角には絶対に入らないはずだった。
「ほら、Mさんのすぐ後ろ。黒っぽい木のドアが少しだけ開いてるよ」
Sさんの言葉に、Mさんはゆっくりと振り返った。
しかし、そこにあるのは見慣れた白い壁紙だけだ。
ポスターの一枚すら貼っていない無機質な壁。
「いえ、私の後ろは壁ですよ。Sさん、疲れすぎじゃないですか?」
Mさんは苦笑いしながら、再び画面に目を戻した。
だが、画面を見た瞬間、彼女の背筋に氷を押し当てられたような衝撃が走った。
ノートパソコンの小さなウィンドウに映る「自分の背景」。
そこには現実には存在しないはずの、重厚で古びた「黒い木製のドア」が、くっきりと映り込んでいたのだ。
ドアはわずかに隙間を開け、その向こう側は吸い込まれるような真暗闇だった。
上司も異変に気づいたのか、無言で画面を凝視している。
「…Mさん、冗談抜きで一回後ろを確認したほうがいい。
画面越しには、誰かがその隙間からこっちを見てるように見えるんだ」
上司の声が震えている。
Mさんは恐怖で指先が震え、マウスを握る力も入らなくなった。
勇気を振り絞り、もう一度大きく首を回して後ろを見た。
やはり壁だ。
手を伸ばせば、ザラついた壁紙の感触が指先に伝わる。
そこにはドアノブも、隙間も暗闇もない。
「何もありません。壁しかないんです」
絞り出すような声でMさんが言うと、画面の中の二人は絶句した。
画面上では、Mさんの手が「黒いドア」を突き抜けて動いているように見えていたからだ。
「今日はもう終わりにしよう。Mさん、すぐ明るいところへ移動して…」
上司がそう言いかけた時、プツンと二人の接続が切れた。
深夜の静寂の中に、パソコンのファンが回る音だけが響く。
Mさんは慌てて会議を終了しようとした。
しかし、マウスカーソルが動かない。
それどころか画面の中に映る自分の姿が、現実の動きとは微妙にズレ始めた。
画面の中のMさんは、怯えた表情で固まっている。
そしてその背後にある黒いドアが、ギィ…と嫌な音を立てて、ゆっくりと開き始めた。
現実の部屋では何の音もしない。
風も吹いていない。
だが、画面の中では開いたドアの隙間から、青白い、異様に細長い手が這い出してきた。
その手はMさんの肩にゆっくりと伸び、彼女の髪を指先で弄り始める。
「やめて…!」
Mさんは声にならない悲鳴を上げ、パソコンの液晶を叩きつけるように閉じた。
ガシャン、という音と共に、部屋は暗闇に包まれた。
彼女は震えながら玄関へ走り、外へ飛び出した。
その夜は近くのビジネスホテルに逃げ込み、一睡もできずに朝を迎えたという。
翌日、彼女は不動産業者に連絡し、数日のうちに別のマンションへ引っ越した。
元の部屋の壁の向こうに何があったのか、調べる勇気はなかった。
しかし、引っ越し先で新しいパソコンをセットアップし、動作確認のためにカメラを起動した時。
画面に映し出された彼女の背後。
白い壁の真ん中に、あの日見た黒いドアの取っ手が、ほんの少しだけ描き出されていた。
それはバグでも見間違いでもない。
一度開いてしまったものは、もう画面を閉じただけでは終わらないのかもしれない。