都内の中学校に通うKさん(14歳女性)が体験したのは、二年前の夏、Y高原で行われた二泊三日の林間学校での出来事だ。
宿泊先は、古い木造のバンガローが点在するキャンプ場。
一つの建物に一つの班が割り振られ、食事や入浴は少し離れた場所にある「管理棟」を共同で利用する決まりになっていた。
特に、班ごとに時間が指定されている大浴場での入浴は、集団行動の規律を重んじるこの行事において、最も厳格なルールの一つだった。
中学二年生。
多感な時期の宿泊行事は、クラス中が高揚感に包まれていた。
Kさんの班は、普段から仲の良い女子五人組。
自分たちだけで一晩を過ごす古いバンガローは、少し不気味ではあったが、それ以上に特別な解放感を与えてくれた。
「五人一組。自分たちだけの城だね」
消灯前、Kさんたちは狭い室内で寝袋を並べ、懐中電灯の光を頼りにお喋りに興じていた。
建物の外は深い雑木林。
夜の山の静寂は重く、時折聞こえる風の音や屋根を叩く小枝の音が、日常とは切り離された「異界」にいることを自覚させた。
午後十時。
見回りの担任教師が、入り口の引き戸を叩いた。
「寝てるか?点呼取るぞ」
教師は手元の名簿を懐中電灯で照らし、淡々と名前を呼び始めた。
「阿部」「はい」
「加藤」「はーい」
「K」「はい」
「佐藤」「はい」
「田中」「はい」
ここまではいつも通りの五人だった。
しかし、教師は名簿から目を離さぬまま、ごく自然な口調で「六人目」の名前を呼んだ。
「…宗像(むなかた)」
一瞬、室内に奇妙な沈黙が流れた。
自分たちの班にそんな名前の生徒はいない。
だが、その沈黙を破ったのは、部屋の隅から聞こえた微かな、しかしはっきりとした返事だった。
「…はい」
それは鈴を転がすような、酷く透き通った少女の声だったという。
「よし、全員いるな。早く寝ろよ」
教師は疑う様子もなく戸を閉め、次のバンガローへと去っていった。
Kさんは心臓の鼓動が早まるのを感じた。
暗闇の中、班員たちの気配を探る。
「ねえ…今の、誰?」
加藤さんが震える声で尋ねた。
誰も答えない。
しかし、部屋の最奥、窓際の暗がりに、誰かが丸まって寝袋に入っているような「膨らみ」があることに全員が気づいていた。
「…きっと隣の班の子が間違えて来ちゃったんだよ。暗いし、明日先生に言おう」
誰かがそう言い、全員が無理やり目を閉じた。
関わってはいけない。
本能的な恐怖がそう告げていた。
翌朝。
眩しい日差しと共に目が覚めたKさんたちは、真っ先に部屋の隅を確認した。
そこには誰もいなかった。
寝袋も荷物も、人のいた形跡すら残っていない。
朝食の際、Kさんは思い切って担任の先生に尋ねた。
「先生、昨日の夜、六人目の名前呼びませんでした?宗像さんって…」
すると先生はパンを口に運ぼうとした手を止め、怪訝そうな顔でこう返した。
「何を言ってるんだ。お前たちの班は五人だろ。名簿通りだ」
手渡された名簿のコピーを確認すると、そこには確かにKさんたち五人の名前しか並んでいない。
昨夜、先生が読み上げたはずの「宗像」という文字は、どこにも存在しなかった。
しかし、不可解なのはそれからだった。
「ねえ…宗像さんのこと、覚えてる?」
Kさんが班員に尋ねると、驚くべき答えが返ってきた。
「うん。昨日の夜、一緒に歯を磨いたよね。髪が長くて静かな子だった」
「お風呂の時、私の後ろに並んでた気がする」
「お昼のカレー、ジャガイモを避けて食べてたでしょ?私、それを見て『好き嫌いあるんだな』って思ったもん」
班員全員の中に、存在しないはずの「宗像さん」との断片的な記憶が、確かに刻まれていたのだ。
しかし、誰も彼女の顔だけが思い出せない。
どんな服を着ていたか、どんな表情をしていたか。
記憶の輪郭ははっきりしているのに、中心だけが空白なのだ。
さらに、他の班やクラス全体を見渡しても、宗像という名字の生徒は一人もいなかった。
林間学校の最終日。
バスに乗り込む直前、Kさんはふと、自分たちが泊まったバンガローを振り返った。
その建物の軒下に、一枚の小さな忘れ物が落ちているのが見えた。
それは学校指定のネームプレートだった。
プラスチックの表面には、見覚えのない筆跡でこう記されていた。
『2年D組 宗像』
Kさんが通う中学校にはAからC組しかない。
現在もKさんたちの班の集合写真には、五人の背後に、木の幹とも人影ともつかない「白い掠れ」が写り込んでいる。
あの日、彼女たちは確かに「六人」で過ごしていた。
そして今でも同窓会で集まるたびに、誰かがふと口にするのだ。
「そういえば、あの子…宗像さんは、今どこで何をしてるんだろうね」