今回、当時の出来事を思い出しながら語ってくれたのは、都内の広告代理店に勤めるTさん(30代男性)。
三年前の冬、大規模なキャンペーンの締め切りを前に、彼は連日のように深夜までオフィスに残って作業を続けていた。
その日の夜、時刻は午前2時を回ったところだった。
広大なフロアの明かりは、Tさんのデスク周りと、廊下の非常灯だけが青白く灯っている。
周囲は静まり返り、聞こえるのは自分のタイピング音と、空調が微かに唸る音だけだ。
「…ガコン、ウィィィィン…」
不意に、誰もいないはずのコピー機(複合機)が動き出す音がした。
不審に思い顔を上げると、20メートルほど離れた暗がりに鎮座する、複合機の液晶画面がぼんやりと青白く発光している。
(誰か遠隔でプリントしたのかな…?)
Tさんは椅子を立ち、重い足取りで複合機へと向かった。
排紙トレイには一枚の紙が吐き出されていた。
手に取ってみると、それは今、Tさんが働いているこのオフィスのフロア図面だった。
しかし、その図面はどこか歪んでいた。
本来あるはずのない黒い塗りつぶしが各所に施され、図面の中央、今まさにTさんが座っている自分のデスクの位置には、赤いペンで執拗になぞられたようなバツ印が書き込まれていた。
(…なんだ、誰かの悪質ないたずらか?)
そう思おうとしたが、指先が微かに震える。
図面のバツ印のすぐ隣には、現実のオフィスには存在しない細い階段が一本、書き加えられているのだ。
階段の先は真っ黒に塗りつぶされ、
その入り口を指し示すように、震えるような筆致でこう記されていた。
『 ✖✖✖の出入り口 』
中央の三文字は、漢字でもなければ記号でもない。
まるでミミズがのたくったような、あるいは鋭利な刃物で紙を掻きむしったような、この世のどの言語にも属さない「読めない文字」だった。
だが、その文字を目にした瞬間、Tさんの脳裏には湿った土の臭いと死臭が混ざったような、不快なイメージが直接流れ込んできたという。
理解を拒絶するような悍(おぞ)ましさに、Tさんは慌てて図面を丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
誰かの嫌がらせに違いない。
そう自分に言い聞かせ、荷物をまとめてすぐに帰宅しようとデスクに戻った。
しかし、椅子に座り、パソコンのシャットダウンを待っている時だった。
「…コツン」
足元のOAフロア(配線用の二重床)のすぐ下から、何かが硬いもので床板を叩く音がした。
「…コツン、コツン、コツン…」
それは規則正しく、まるで下から誰かが「階段を一段ずつ登ってきている」かのような響きだった。
このオフィスビルは最新のセキュリティを誇る高層建築だ。
床下には配線スペースがあるだけで、人が入れるような隙間などあるはずがない。
しかし、音は次第に大きくなり、ついにはTさんの椅子の真下の床板が、ミシミシと嫌な音を立てて軋み始めた。
(図面の通りだ…。あの階段から誰かが来ている)
逃げなければならない。
そう思っているのに恐怖で体が硬直し、椅子から立ち上がることができない。
やがて床の軋みは止まり、静寂が戻った。
安堵の溜息を漏らそうとしたその瞬間、デスクの下、暗い足元から冷たい風が吹き抜けるのを感じた。
見下ろすと床板の継ぎ目が不自然に浮き上がり、そこから青白く細長い指先が、隙間にそっと掛けられていた。
爪のない蝋細工のような指が、音もなく床板をさらにこじ開けようとしている。
Tさんは悲鳴を上げながらオフィスを飛び出し、エレベーターへ駆け込んだ。
翌朝、同僚と共にデスクを確認したが、床板に異常はなく、ゴミ箱に捨てたはずの図面もどこにも見当たらなかったという。