今回、震えるような溜息と共に当時の戦慄を語ってくれたのは、現在は都会へ戻り、平穏な生活を取り戻しているKさん(30代男性)だ。
三年前、彼はリモートワークを機に、以前から憧れていた山あいの集落へ移住した。
その村の入り口、集落と山林の境界線には、一体の奇妙な案山子が立っていた。
それは大人の背丈を遥かに超えるほど異様に背が高く、ボロ布を幾重にも纏い、顔の部分には麻袋が被せられていた。
村の年寄りたちは、移住してきたKさんに冷ややかな視線を向けながら、たった一言だけ釘を刺した。
「あれには決して触れるな。夜になっても決して近寄るな」
移住して一ヶ月が経った、ひどく雨風の強い夜のことだった。
深夜2時、窓を叩く激しい雨音で目を覚ましたKさんは、戸締まりを確認するために一階の居間へ下りた。
ふと、雨戸の隙間から庭に目をやった彼は、心臓が跳ね上がるのを感じた。
「…な、なんだあれ」
暗闇の中、庭のど真ん中に、見覚えのある巨大な人影が立っていた。
あの村の入り口にあるはずの案山子だった。
暴風雨に煽られ、ボロ布を激しく棚引かせながら、案山子は一点を凝視するようにKさんの家に向かって立っている。
恐怖で全身が粟立ったが、Kさんは自分に言い聞かせた。
(風で飛ばされてきたのか?いや、あんなに重そうなものが飛ばされるはずがない)
彼は震える手でスマートフォンを手に取り、警察に電話をかけようとした。
しかし、なぜか圏外のままで繋がらない。
窓の外をもう一度見ると案山子の位置が、さっきよりも数メートルほど玄関に近づいているように見えた。
Kさんは悲鳴を上げ、寝室へと逃げ込み布団の中で朝を待った。
翌朝、恐る恐るカーテンを開けると、庭には何もなかった。
村の入り口を確認しに行くと、案山子は昨日までと全く同じ場所、同じ角度で静かに山を見つめて立っていた。
「夢だったのか…」
安堵の溜息を漏らし、家に戻ったKさんは、玄関の上がり口で立ち止まった。
玄関マットの上が、異常なほどの乾いた藁(わら)で埋め尽くされていたのだ。
昨夜はあんなに激しい雨が降っていたというのに、その藁はまるで今さっき詰め直されたかのように、カラカラに乾いていた。
さらに彼を戦慄させたのは、玄関の引き戸に残された跡だった。
古い木製の扉には、泥と脂にまみれた「節くれだった指の跡」が、何重にも重なり合ってベッタリと付着していた。
その指の跡は、大人の手のひらよりも二回りほど大きく、節々が異常に角ばっており、まるで人間の指ではない何かが、中に入ろうとして扉を必死に抉ったかのような深さだった。
Kさんはその日、隣家に住む老人にこのことを打ち明けた。
老人は茶を啜る手を止めず、窓の外を遠く見つめながら、ボソリとこう呟いたという。
「…ああ。昨夜はよほど『運ぶやつら』が慌てていたんだな。
中に入れようとしたが夜が明けてしまったか」
運ぶやつら。
Kさんはその言葉を聞いた瞬間、悟った。
あの案山子が自ら歩いているのではない。
夜な夜な、村の暗闇から這い出してきた何かたちが、あの巨大な偶像を担ぎ上げ、誰かの家の前に「供え物」として運んできているのだとしたら。
今でも彼は、風に揺れる洗濯物や、道端の棒杭を見るだけで、あの乾いた藁の匂いと、扉に残された黒い指の跡を思い出して、吐き気に襲われるという。