今回、重い口を開いて当時の体験を語ってくれたのは、大学生のSさん(21代男性)だ。
二年前の夏、彼は一人旅の途中で目的の駅を間違えて降りてしまい、山あいの深い場所に位置する無人駅で、始発までの数時間を過ごすことになった。
その駅は周囲に民家一軒見当たらない、古い木造の駅舎だった。
時刻は深夜2時。
外は街灯すらなく、ただ虫の鳴き声だけが耳を刺すような静寂の中に響いている。
「…はぁ、参ったな」
Sさんは冷たいベンチに座り、スマートフォンのバッテリーを節約するために、ぼんやりと待合室の隅に置かれた大きな姿見(鏡)を眺めていた。
その鏡は縁が黒ずみ、表面に細かなひび割れが走っている年代物だった。
ふと、Sさんは鏡の中に違和感を覚えた。
自分のすぐ後ろ、待合室の入り口付近に、白い影が立っている。
「えっ?」
驚いて振り返ったがそこには誰もいない。
古びた木の扉が、夜風に吹かれてガタガタと僅かに震えているだけだ。
見間違いだと思い、再び鏡に目を戻したSさんは、今度こそ心臓が止まるかと思った。
鏡の中には編み笠を深く被り、白装束に身を包んだ「巡礼者」のような人物がいる。
現実の室内には自分以外誰もいない。
音もしない。
だが、鏡の中のその人物は、歩くたびに砂利を踏むような「シャリッ、シャリッ」という乾いた音を立てて、じわじわとSさんの背後に迫ってくる。
(見ちゃダメだ。これ以上鏡を見ちゃダメだ!)
そう思うのに、視線が鏡に吸い寄せられて離れない。
巡礼者はSさんの真後ろまで来ると、深く被った編み笠をゆっくりと持ち上げた。
笠の下には顔がなかった。
いや、目も鼻も口もなく、ただ真っ白な「のっぺりとした皮膚」だけが張っていたのだ。
その人物が震えるSさんの肩に向けて、細長い腕を伸ばした。
鏡の中の指先が、SさんのTシャツの肩口に触れたその瞬間。
「…っ!」
Sさんの右肩に氷を押し当てられたような、凄まじい冷気が走った。
それと同時に、遠くの山影から朝の気配を告げる一番鳥の声が響いた。
気付くと、鏡の中には呆然と座り込む、自分一人が映っているだけだった。
巡礼者の姿も、あの不気味な足音も嘘のように消え去っていた。
その後、始発に乗ってようやく目的地に辿り着いたSさんは、着替えようとして鏡の前でシャツを脱ぎ、絶句した。
鏡に映る自分の右肩に、真っ白い粉のようなものが、べったりと付着していたのだ。
それは指の形ですらなく、まるで大きな掌のような、歪な白斑(はくはん)だった。
あまりの恐怖に、Sさんはその後の旅の予定をすべて取りやめ、その日のうちに自宅へと引き返したという。
今でもSさんの右肩には、その時の白い跡が消えずに残っている。
そして彼は、二度と鏡を背にして座ることができなくなった。
時折、ふとした瞬間に鏡を覗き込むと、あの編み笠の人物が、以前よりも少しだけ近くに立っているような気がするからだという。