地方都市の古い総合病院。
その4階にある内科病棟は、慢性期の高齢患者が多く、夜間は独特の重苦しい静寂に包まれる。
今回、震えるような声で当時の戦慄を語ってくれたのは、現在は別のクリニックで働いているMさん(20代女性)。
三年前、看護師になって半年が過ぎた頃のこと。
慣れない夜勤にもようやく体が馴染んできた、雨の降る蒸し暑い夜だった。
深夜2時。
消灯後の病棟は、ナースステーションから漏れる青白い光と、非常灯のオレンジ色の光が混じり合い、廊下の奥は薄暗い。
先輩看護師が仮眠に入り、ステーション内にはMさん一人が残された。
聞こえてくるのは雨が窓を叩く音と、ナースコールを待つモニター機器の微かな電子音だけ。
Mさんは巡回記録の入力を進めながら、ふと、正面に並んだ監視モニターに目をやった。
そこには病棟の各所に設置されたカメラの映像が、四分割されて映し出されている。
「…あれ?」
Mさんの手が止まった。
画面の左下、4階の北側廊下を映すカメラ。
そこには腰を深く曲げた一人の老人が、ゆっくりとした足取りで歩いている姿が映っていた。
パジャマのような薄い灰色の服を着て、手には何も持っていない。
(…徘徊かな。あんな患者さんいたっけ?)
Mさんは慌てて椅子から立ち上がり、モニター越しではなく直接その廊下を確認した。
ナースステーションからは、北側廊下が一直線に見渡せる。
しかし、そこには誰もいない。
非常灯の下、誰もいないはずの廊下には、モップがけされたばかりのリノリウムが冷たく光っているだけだ。
気のせいだと思い再びモニターに視線を戻す。
だが、画面の中ではその老人が一歩、また一歩と廊下の奥へ進んでいる。
その姿は肉眼では見えないはずの何かが、電子の目を通してのみ具現化しているかのようだった。
「カツン…カツン…」
不意にステーションのスピーカーから、モニターの音声を拾った微かな足音が聞こえてきた。
それは硬いものを引きずるような不自然な音。
老人は廊下の突き当たりにある、402号室の前でピタリと足を止めた。
そこは数日前から容態が悪化し、予断を許さない状況にある高齢の女性、Tさんが入院している個室だった。
老人はゆっくりとドアの方を向き、その細長い指をドアノブにかけた。
モニターの中のドアが音もなくスッと開く。
(行かなきゃ…!)
Mさんは恐怖を押し殺し、懐中電灯を握りしめて402号室へと駆け出した。
静まり返った廊下に、自分の心臓の鼓動が耳障りなほど大きく響く。
問題の部屋の前に着き、Mさんは息を飲んでドアノブに手をかけた。
扉を開けると室内には医療機器の「ピッ、ピッ」という一定の動作音と、Tさんの浅い呼吸音だけが聞こえている。
懐中電灯の光で室内を照らす。
老人の姿はない。
窓も閉まっている。
(やっぱり見間違いだったんだ…)
安堵して胸をなでおろしたその時
「…まだ、私じゃない」
掠れた、震えるような声がベッドの方から聞こえた。
見ると眠っていたはずのTさんが目を見開き、虚空の一点を見つめていた。
その視線は、Tさんの枕元に立つ何かを追っているようだった。
「…まだ、お迎えには…早いですよ…」
Tさんは何かに弱々しく首を振る。
すると誰もいないはずのベッドの脇の空間が、不自然にゆらりと揺れた。
それと同時に室内を包んでいた湿った空気が、一気に氷のような冷たさに変わった。
「サァ…」と、衣類が擦れるような音が耳元を通り過ぎる。
Mさんは金縛りに遭ったように動けず、ただその場に立ち尽くしていた。
やがて部屋の空気が元に戻った。
Tさんは深いため息をつくと、再び深い眠りに落ちていった。
Mさんは震える足でナースステーションに戻り、恐る恐るモニターを確認した。
そこにはもうあの老人の姿は映っていなかった。
ただ、402号室の入り口の床に、一点だけ不自然な跡が残っていた。
翌朝、夜勤明けのMさんがその場所を確認すると、402号室のドアの前からステーションの方に向かって、まるで濡れた雑巾を引きずったような黒いシミが点々と続いていた。
そのシミは人の足跡のようでもあり、あるいは何かの節のような、不気味な形をしていたという。
その日の午後、Tさんは奇跡的に容態が回復し、数日後には一般病棟へ移ることができた。
後日、MさんがTさんにあの夜のことを尋ねると、彼女は遠くを見るような目でこう答えた。
「あの日ね、昔の主人が呼びに来たのよ。
でも、主人の後ろに顔のない真っ黒な大きな人が立っていて…。
主人がその人に何かを渡しているのが見えたわ」
Tさんの命を救ったのは亡き夫の説得だったのか、それとも何か別の取引があったのか。
Mさんは今でも、深夜の病院で監視モニターを見るのが恐ろしいという。
画面の中に、自分ではない誰かを見つめる不自然な影が、再び映り込むのではないかという錯覚に囚われるからだ。