地方の高台に建つ、古いリハビリテーション専門病院。
夜になると窓の外は深い山々の闇に包まれ、建物の古さが際立つその病棟で、大学生のTさん(20代男性)は奇妙な「音」に悩まされていた。
三週間前、バイク事故で左足を複雑骨折したTさんは、この病院の3階にある整形外科病棟に入院していた。
リハビリ病棟の夜は早い。
21時の消灯を過ぎれば、廊下の明かりは最小限に絞られ、入院患者たちの微かな寝息だけが建物に聞こえる。
Tさんの病室は、エレベーターホールからほど近い4人部屋だった。
骨折の痛みと、ギプスによる寝返りの打てない不自由さから、彼は毎晩のように深夜に目を覚ましていた。
その音が聞こえ始めたのは、入院して二週間ほど経った風の強い夜のことだった。
「ピーン…」
静まり返ったフロアに電子的な到着音が響く。
深夜2時。
緊急搬送を受け入れていないこのリハビリ病棟で、こんな時間にエレベーターが動く理由はない。
(…夜勤の看護師さんかな)
最初はそう思っていた。
しかし、扉が開く「プシューッ」という重々しい音に続いて聞こえてきたのは、軽やかな靴音ではなかった。
「ズズッ…ズズッ…」
何か濡れた重い袋でも引きずっているような、不快な摩擦音。
その音はエレベーターホールからゆっくりと廊下へ向かい、Tさんの病室の前を通り過ぎて、さらに奥へと消えていく。
姿は見えない。
ただ、音だけがリノリウムの床を這うようにして近づき、遠ざかっていくのだ。
翌朝、看護師に尋ねてみたが、やはり「深夜にエレベーターが動く記録はない」と言われた。
それから毎晩、深夜2時を過ぎると、必ずエレベーターが3階で止まるようになった。
「ピーン」という到着音。
「ズズッ…」という、あの重苦しい引き摺り音。
その音が聞こえるたび、Tさんの病室の温度がすうっと下がり、窓ガラスがガタガタと震える。
ある夜、Tさんは耐えきれなくなり、真実を確かめるためにベッドを抜け出した。
松葉杖を手に取り、痛む足を引きずりながら、音を立てないようゆっくりと廊下へ出る。
ちょうどその時だった。
「ピーン」
エレベーターが3階に到着した。
Tさんは壁の影に身を潜め、エレベーターホールを注視した。
扉がゆっくりと開く。
照明の落ちた薄暗いカゴの中は無人だった。
誰もいない。
何も乗っていないはずだ。
しかし。
「…ブーーッ、ブーーッ、ブーーッ…」
突如として無人のカゴの中に、定員オーバーを告げる警告音が鳴り響いた。
誰もいないはずの床。
そこに、目に見えないほどの凄まじい重みがのしかかっているかのように、カゴの底が、ミシミシと軋むような音を立てている。
「ヒッ…」
Tさんが息を呑んだ瞬間、カゴの奥から何かが這い出てきた。
それは透明な空気の揺らぎのようでいて、しかし確実に床を圧迫している。
「ズズッ…」
あの音がした。
目の前のリノリウムの床に、まるで目に見えない巨大な何かが這ったかのような、濡れた跡がじわじわと浮かび上がっていく。
それはTさんの足元に向かって、一直線に伸びてきた。
パニックに陥ったTさんは、必死に松葉杖を振り回し、自分の病室へと逃げ帰ったあと、布団を頭から被り、朝が来るまで震えて過ごした。
翌朝、Tさんは無理を言って退院を早めてもらい、逃げるように病院を去った。
去り際、彼は偶然見てしまった。
自分が逃げ込んだ病室の入り口。
そこには、昨夜はなかったはずの指の跡が残っていた。
床から壁、そして天井に向かって、まるで何かが壁を這ったかのように、五本の指を突き立てた抉れ跡が点々と奥へ続いていたのだ。
Tさんは今でも、ビルのエレベーターで「定員オーバー」のブザーを聞くと、あの無人のカゴの中で鳴り響いていた「ズズッ」という湿った音を思い出し、階段を使わずにはいられないという。