山深い険しい道の先にある、古びた寺。
今回、そこで体験した奇妙な一夜を語ってくれたのは、現在、その寺で若手僧侶として修行に励んでいるMさん(20代男性)だ。
数年前、連戦連敗の就職活動に疲れ果てたMさんは、現状をリセットしたいという思いから、一晩の「宿坊体験」に申し込んだ。
案内されたのは、本堂へと続く長い渡り廊下に面した客間。
その廊下は、歩くたびにキュッキュと小鳥の鳴き声のような音が響く、見事な「鶯(うぐいす)張り」の板敷きだった。
「夜中の移動は控えてください。この廊下はよく響きますから」
そう告げた年老いた住職の目は、どこか遠くを見ているようだった。
深夜2時。
古い畳の匂いと静寂の中で、Mさんはふと目を覚ました。
静まり返った山寺。
しかし、その静寂を破るように、廊下の向こうから規則正しい音が聞こえてきた。
「…カラン…カラン…」
それは修行僧が持つ錫杖(しゃくじょう)を突く音だった。
続いて、あの鶯張りの廊下が鳴る。
「キュッ…キュッ…」
誰かがゆっくりと、本堂の方からこちらへ向かって歩いてくる。
(こんな夜更けに…住職さんだろうか…)
好奇心に駆られたMさんは、音を立てないよう静かに起き上がり、廊下へ通じる障子を数センチだけ開け、その隙間から外を覗き見た。
月明かりがわずかに差し込む、磨き上げられた木の廊下。
そこにいたのは、古めかしい袈裟を身にまとった一人の僧侶だった。
僧侶は乱れのない足取りで、一歩一歩、踏み締めるように歩いていた。
その姿には恐ろしさはなく、むしろ凛とした清々しさが漂っている。
ふと、その僧侶がMさんの部屋の前で足を止めた。
ゆっくりとこちらを向いたその顔は、慈しむような穏やかな微笑を浮かべていた。
Mさんと目が合った瞬間、その僧侶の姿は、まるで夜霧に溶けるようにスーッと消えてしまった。
あとには、夜風に揺れる木々の音だけが残された。
翌朝、Mさんは本堂を訪れ、住職に昨夜の出来事をすべて打ち明けた。
話を聞き終えた住職は驚くふうでもなく、穏やかな微笑みを浮かべてこう言った。
「…そうですか。あのお方のお姿があなたには見えましたか」
住職はMさんの肩にそっと手を置き続けた。
「あのお方は、かつてこの寺で真摯に道を求めた先代様。
その残響が今もこうして寺を護っておられるのです。
どうやらあなたは人混みの中で戦うより、こちらの静かな道を歩む方が向いていると、先代様に誘われたのかもしれませんな」
その言葉を聞いた瞬間、Mさんの心から、都会での焦りや就職活動の苦しみが、すうっと消えていくのを感じたという。
現在、Mさんはその寺で正式に得度し、住職の元で修行を続けている。
夜、一人で廊下を掃除していると、時折背後から「カラン…」と錫杖の音が聞こえることがある。
「あの日、あの廊下で消えていったお坊さんの背中を追いかけて、私は今ここにいます。
あれは恐怖ではなく、私を救うための道しるべだったのだと、今では確信しています」
Mさんがそう語る間、寺の奥からは、誰の足跡もないはずの鶯張りの廊下が、キュッ…キュッ…と、優しく鳴り続けていた。