今回、山岳地帯の厳しい夜に体験した不可解な出来事を語ってくれたのは、ある山小屋で数シーズンスタッフを勤めていたAさん(30代男性)だ。
三年前の九月。
紅葉にはまだ早く、登山客もまばらな平日の夜のことだった。
午後9時の消灯時間を過ぎ、Aさんは手持ちのライトを片手に、小屋内の最終見回りを行っていた。
古い木造の廊下を歩くと、ミシミシと乾燥した木の鳴る音が静まり返った小屋内に響く。
客室からは時折、静かな寝息が漏れ聞こえていた。
一階の突き当たりにある談話室に差し掛かった時、Aさんは足を止めた。
部屋の明かりはまだ点いており、窓際の長椅子に一人の男が座っていたからだ。
男は部屋の中央を背にし、真っ暗な外の景色をじっと見つめている。
「…お客様、もう消灯の時間ですので」
Aさんは努めて穏やかに声をかけた。
しかし、男からの返事はない。
ピクリとも動かず、石像のように固まっている。
違和感を覚えたAさんは、男の様子を伺うためにその横へと回り込んだ。
その男は、他の宿泊客とは明らかに雰囲気が違っていた。
その日の宿泊客は20代から30代の若者グループが数組だけで、皆、今風のカラフルなウェアを着て、顔もすっきりと剃り整えていたはずだ。
だが、目の前の男は、使い込まれた厚手のウールシャツを羽織り、胸元まで届くほど立派な白髪混じりの髭を蓄えていた。
「…あの、電気を消しますよ?」
Aさんは覗き込むようにして顔を見ようとした。
だが、すぐ横に立っているはずなのに、なぜか男の顔だけがやけに影っていてはっきりと見えない。
照明はすぐ頭上で煌々と点いているというのに、そこだけ光が吸い込まれているような、異様な影だった。
言いようのない恐怖が込み上げ、Aさんはそれ以上踏み込むことができなかった。
「…おやすみなさい」
震える声でそう告げると、逃げるように壁のスイッチに手をかけ、パチン、と音を立てて明かりを落とした。
一瞬で視界が闇に包まれる。
暗順応を待つ数秒の間、背後で「カリッ…」と、爪でガラスを引っ掻くような小さな音が聞こえた気がした。
おそるおそる振り返り、手元のライトで先ほどの長椅子を照らしてみる。
…誰もいなかった。
そこにはただ、使い古された木のベンチが冷たく鎮座しているだけだ。
Aさんは怖くなり、逃げるように自分のスタッフ部屋へと戻り、布団を被った。
翌朝。
澄み渡る青空の下、宿泊客たちが次々と出発の準備を整えていた。
Aさんは食堂で朝食を運びながら、昨夜の「髭の男」を探した。
しかし、どこを見渡しても、立派な髭を蓄えた年配の男性など一人もいない。
チェックアウトの際、不審に思ったAさんは宿泊名簿を確認した。
名簿には、昨夜から泊まっている若者たちの名前が整然と並んでいるだけだった。
「後でベテランの管理人に話したら、あそこの窓はね、昔、吹雪で帰れなくなった登山者が、仲間を待ち続けて力尽きた場所なんだって言われました。
あの人はきっと、今でも誰かが山を登ってくるのを、あそこで待っているのかもしれません」
Aさんは今でも、暗い窓ガラスに自分の顔が映るたび、その背後に髭の男が立っているのではないかと、背筋が凍る思いがするという。