Sさんがまだ高校生だった頃の話。
夏休みの半ば、うだるような暑さが夜になっても残る日のことだった。
Sさんは友達3人と集まり、退屈しのぎに地元で有名な廃墟へ行こうという話になった。
目的地は、市街地のはずれにある旧市民病院。
数年前に閉鎖されて以来、管理する者もいないまま放置され、今ではすっかり不気味な心霊スポットとして噂されている場所だった。
深夜1時を回った頃、彼らは自転車を漕いで現地の前に到着した。
錆びついた高い鉄柵が敷地を囲んでいたが、一箇所だけ網が大きく破られている場所があり、そこから容易に敷地内へと侵入することができた。
月明かりすら届かないような暗闇の中、懐中電灯を手に、ひび割れたアスファルトを進んで建物の裏手へと回り込む。
正面玄関は厳重に板張りされていたが、裏手には外付けの非常階段が上へと伸びていた。
「上まで行ってみようぜ」
友達の一人が言った。
鉄製の階段は赤黒く錆びついており、一歩足を乗せるたびに「ギィ、ギィ」と嫌なきしみ声をあげた。
懐中電灯の細い光だけを頼りに、4人は一列になって静かに階段を上っていく。
2階、3階と上がり、最上階である5階の扉へとたどり着いた。
しかし、その鉄扉には太いチェーンと南京錠が巻き付けられており、びくともしない。
「チェッ、鍵がかかってんじゃん。中には入れないな」
ドアは施錠されており、諦めて降りようとしたその時だった。
頭上から不意に音が響いた。
コ、コン…。
乾いた、硬いものがコンクリートにぶつかるような音。
それはさらに上の屋上へと続く、暗がりの階段から聞こえてきた。
4人は一瞬で静まり返り、息を呑んで上を見上げた。
ライトの光を向けると、階段の踊り場に小さな白い物体が転がっているのが見えた。
それは古びたプラスチック製のボタンだった。
かつて病室のベッド脇にあったであろう、ナースコールの呼び出しボタン。
なぜ誰もいないはずの屋上から、そんなものが落ちてくるのか。
誰も声を発することができないまま、その物体を凝視していると、カサ、カササ…と、何かが這いずるような奇妙な音が、上方の闇の奥から聞こえ始めた。
ライトの光をさらに奥へと向ける。
信じられない光景だった。
闇の向こうから、灰色の細いコードが無数に絡み合い、まるで巨大な生き物の触手のようにうごめきながら、階段を降りてきていた。
コードの先端には、すべてあの白いボタンがついている。
それがコンクリートの床を擦りながら、彼らのいる場所へと迫ってくる。
カチャ カチャ カチャ カチャ…。
無数のボタンがぶつかり合う音が、静寂を埋め尽くしていく。
「うわあああ!」
誰かが短い悲鳴をあげたのを合図に、4人は一斉に反転し、非常階段を文字通り転げ落ちるようにして駆け下りた。
背後からはありえないスピードで階段を滑り降りてくる、おびただしい数のコードの摩擦音が追いかけてくる。
足を止めれば、あの無数のコードに絡め取られてしまう。
その恐怖だけが彼らを突き動かしていた。
破れた鉄柵をどのようにしてくぐり抜けたのか、誰も覚えていなかった。
とにかく自転車に飛び乗り、ペダルが壊れんばかりの勢いでその場から猛スピードで逃げ出した。
誰も後ろを振り返る余裕はなかった。
ようやく街灯の並ぶ大通りまで出たとき、全員の息は完全に上がっており、全身から冷や汗が吹き出ていた。
「…俺んち来いよ。親、旅行でいないから」
友人の一人が震える声でそう言った。
一人で家に帰るなど、到底不可能な精神状態だった。
逃げ込んだ友人の部屋に入ると、すぐに部屋中の明かりをすべて点けた。
テレビをつけ、ゲーム機の電源を入れ、コントローラーを握りしめた。
テレビ画面から流れる大音量のBGMと効果音だけが、あの暗闇の恐怖をかき消してくれる唯一の救いだった。
誰もゲームの内容に集中などしていなかったが、ただひたすらにボタンを叩き続けた。
そうして外が完全に明るくなり、窓から眩しい朝の光が差し込んでくるまで、Sさんたちは一言もあの廃病院の話をすることなく、夜を明かしたそうだ。