これは大学生だったMさんが、連休を利用して一人で山へ登った時の話。
登山ルートは初心者向けで、装備も万全だった。
しかし、下山中に急な濃霧に見舞われ、視界を失ったMさんは足を滑らせて斜面を数メートル滑落した。
幸い命に別状はなかったが、右足を強く捻り、自力で歩くことが困難になった。
時刻は午後4時を回り、周囲は霧と夕闇で急速に暗くなっていく。
携帯電話は圏外。
Mさんは雨具を着込み、岩陰で救助を待つことにした。
数時間が経過した頃だろうか。
深い霧の向こうから足音が聞こえてきた。
ザッ、ザッ、ザッ。
Mさんが必死に声を上げると、霧の奥で強いライトの光が揺れた。
「あ、あの!すみません、動けなくて!」
光の主は、上下オレンジ色のレスキューウェアのようなものを着た男だった。
距離は10メートルほどだろうか。
霧のせいで顔までははっきりと見えないが、ヘルメットを被っているのが分かった。
「…大丈夫ですか」
男の声は驚くほど抑揚がなかった。
山の中で遭難者を見つけた安堵も、こちらの怪我を案じる焦りもない。
「足をやっちゃって。動けないんです」
「そうですか。では私についてきてください。
すぐ先に小屋があります」
男はそう言うと、くるりと背を向けた。
Mさんは痛む足を引きずりながら、必死に男の後を追った。
不思議なことに、男はMさんの歩調に合わせるようにゆっくりと進むのだが、決して立ち止まって肩を貸そうとはしなかった。
常に5メートルから10メートルの距離を保っている。
Mさんが「待ってください」と声をかけても、男は「すぐそこです」と繰り返すだけだった。
やがて、男が立ち止まった。
「ここです。ここを曲がれば明かりが見えますよ」
男は前方の、さらに深く霧が立ち込める細い道の方を指差した。
Mさんは「ありがとうございます」と言いかけて、ふと違和感に足を止めた。
男のライトは前方の道を照らしているのだが、相変わらず背中を向けたまま動かない。
「…あの、お名前は?」
Mさんが震える声で問うと、男がゆっくりと首だけをゆっくりと動かし始めた。
その首が人間が回せる限界を超え、メキメキという乾いた音を立てながら、ヘルメットが背中の真ん中にくるまで回転する。
ライトに照らされたその顔には、目も鼻もなかった。
ただ、大きく裂けた口のような隙間から、ドロリとした泥のようなものが溢れ出していた。
「…ここで…みんな待ってるよ」
男が指差した先は道などではなかった。
濃霧に隠れた、数百メートル先まで続く断崖絶壁の縁だった。
Mさんは叫び声を上げ、足の痛みも忘れて来た道を無我夢中で走った。
翌朝、本物の救助隊によって発見されたMさんは、自分が崖っぷちのわずか数十センチの場所で、誰かと会話するようにうわ言を繰り返していたと聞かされた。
あの男が誰だったのか、今となっては分からない。
ただ、Mさんが入院した病院で荷物を整理していると、泥まみれの「古い名札」がリュックの底に紛れ込んでいたという。