深い山奥に佇む古びた温泉旅館「月影荘」。
その名の通り、月明かりが映える静かな夜に奇妙な現象が起き始めた。
ある晩、若い女性が一人旅で月影荘を訪れた。
彼女は疲れを癒やすため、すぐに露天風呂へ向かった。湯船に浸かりながら夜空を見上げると、満点の星空が広がっていた。
しかし、ふと視線を落とすと、露天風呂の隅に黒い影がうずくまっているのが見えた。
女はギョッとしたが暗くてよく見えない。
気のせいだろうと自分に言い聞かせ、部屋に戻った。
その夜、彼女は悪夢にうなされた。
夢の中で、あの黒い影が彼女に覆いかぶさり何かを囁いている。言葉は聞き取れないが、その声は恐ろしく冷たく、彼女の心を凍りつかせた。
目が覚めると、窓の外は既に明るくなっていた。彼女は悪夢を忘れようと朝食を食べに食堂へ向かった。
食堂には他に数組の宿泊客がいた。
彼女は一人旅の寂しさを紛らわそうと、近くの席に座っていた老夫婦に話しかけた。
「この辺りは静かでいいですね」と言うと、老婦人は顔を曇らせてこう言った。
「ええ、静かすぎるくらいにね… 実はこの旅館、夜になると奇妙なことが起こるんですよ」
老婦人は、毎晩決まった時間に廊下を歩く足音や、誰もいないはずの部屋から話し声が聞こえると言った。
そして、必ず誰かの持ち物が一つ消えてしまうのだという。彼女は昨日の夜、お気に入りの髪飾りがなくなったと嘆いていた。
それを聞いた女性は、昨晩見た黒い影のことを思い出した。もしかしたら、あれが持ち物を盗んでいるのかもしれない。彼女は不安を覚えながらも、その日は観光に出かけた。
夜になり、彼女は再び露天風呂に入った。しかし、昨晩のことが頭をよぎり、落ち着いて入っていられない。彼女はすぐに部屋に戻り、眠りについた。
するとまたしても悪夢にうなされた。
今度はあの黒い影がはっきりと見え、それは老婦人そっくりの顔をしていた。そして、こう囁いた。
「私の… 髪飾りを… 返して…」
彼女は飛び起きて部屋中を探した。すると枕元に老婦人の髪飾りがあった。彼女は恐怖で震えながら髪飾りを手に外へ飛び出した。
そして旅館の裏にある古い祠を見つけた。彼女はそこで髪飾りを供え、老婦人の霊を弔った。
翌朝、旅館はいつもの静けさを取り戻していた。
老夫婦も他の宿泊客も、昨晩のことは覚えていないようだった。まるで、あの奇妙な夜は繰り返されることなく、消えてしまったかのようだった。
女性は月影荘を後にし、山を下りていった。
彼女は二度とあの旅館には戻らないと心に誓ったが、あの繰り返される夜の記憶は、いつまでも彼女の心に残り続けた。