田舎巡りが趣味のHさんは、今日も地図を頼りに人里離れた集落を探して山道を走っていた。
古い農村の風景や、忘れ去られたような神社を見つけるのが好きだった。
しかしこの日は少し様子がおかしかった。
午前中から深い霧が出ていて、山道はまるで白い壁に包まれているようだった。
「こりゃ、どこまで行っても同じ景色に見えちゃうな」
Hさんはそう呟き、少し焦りを感じ始めていた。
気づけば車のナビも圏外になり、頼れるのは感覚だけになっていた。
霧はますます濃くなり、視界は数メートル先も見えないほどになった。
そんな中、Hさんはハンドルを切り損ね、車を細い脇道に乗り入れてしまった。
仕方なくその道を進んでいくと、突然、霧の向こうにぼんやりと建物の影が見えてきた。
「村か?」
Hさんは思わず息を呑んだ。
こんな山奥に地図にも載っていない村があるとは。
車を降り、ゆっくりと足を踏み入れた。
辺りは夕方だったが、夏だというのに妙に薄暗い。
そしてその薄暗さには、なぜか青みがかった色が混じっていた。
村全体が薄い霧に包まれながら、青い色を帯びているように見えたのだ。
まるで深い海の底にいるような、不思議な感覚だった。
Hさんが歩き始めると、何人かの村人が姿を現した。
彼らは皆、古めかしい灰色がかった着物を身につけていた。
顔立ちもどこかぼんやりとしていて、表情が読み取れない。
Hさんが「こんにちは」と声をかけても、誰も返事をしない。
彼らはHさんの方をじっと見つめているのだが、口元がかすかに動いているのが見えた。
しかしどんなに耳を澄ましても、Hさんには一切の言葉が聞こえてこなかった。
まるで音のない世界にいるかのような、奇妙な感覚だった。
Hさんは少し大きな声で話しかけてみたが、やはり何も聞こえない。
村人たちはただ、じっとHさんを見つめ、口だけを動かしていた。
その沈黙と青い霧に包まれた村の光景が、Hさんの背筋をぞくりとさせた。
やがて完全に日が沈み、村は一層青い闇に包まれた。
Hさんはこの村に留まるべきではないと直感したが、すでに車のエンジンはかからなくなっていた。
仕方なく明日の朝まで、村の一角にあった古い納屋で一夜を過ごすことにした。
納屋の中はひんやりとしていて、外から聞こえる風の音だけがHさんの孤独を際立たせた。
Hさんは不安な気持ちを抱えながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝、Hさんは冷たい空気で目を覚ました。
納屋の隙間から差し込む光は、昨日見た青い光ではなかった。
ごく普通の夏の朝の光だ。
Hさんは起き上がり外に出た。
しかし、Hさんの目に飛び込んできたのは驚くべき光景だった。
そこには村など、どこにもなかった。
昨日確かに見たはずの家々は、土台すら残っていない。
舗装されていないはずの道は草木に覆われ、ただの獣道に戻っていた。
Hさんが一晩を過ごした納屋も、まるで元から朽ち果てていたかのように、今にも崩れ落ちそうな廃材の山と化していた。
青い霧も口を動かすだけの村人も、何もかもが消え去っていた。
まるで昨日の出来事がすべて夢だったかのように。
Hさんは呆然と立ち尽くした。
もしかしたら昨日のあの村は、この森の中に迷い込んだ旅人を惑わす、まぼろしだったのだろうか。
それともあの青い霧の中に、別の時間が流れていたのだろうか。