知人のTさんから聞いた話。
彼は高山植物の調査を生業としていて、その日も人里離れた深い山へと分け入っていた。
彼の専門は、滅多にお目にかかれないような珍しい高山植物の生態を記録すること。
そのためならどんな険しい道のりも厭わなかった。
この日も彼は地図を片手に、人の手がほとんど入っていないという山頂を目指して黙々と歩を進めていた。
山肌は次第に険しさを増し、足元はゴツゴツとした岩だらけになった。
Tは疲労を感じながらも、目当ての植物が群生しているかもしれないという期待に胸を膨らませていた。
もう少しで山頂、という時だった。
突如、彼の視界の先にある岩肌から、何かがぬるりと這い出してきた。
それは巨大で、まるで粘液でできたような不定形の塊だった。
Tは息を呑んだ。
それは彼が今まで見てきたどんな生物とも異なっていた。
その塊はゆっくりとうごめき、地面に定着しているかと思えば、次の瞬間には、液体のようになめらかに垂直な岩壁を流れ上がっていく。
Tは動けなかった。
恐怖というよりも、理解を超えたものを見た驚きに、ただ立ち尽くしていた。
それは生命体なのだろうか?それとも、何らかの自然現象なのだろうか?彼の脳裏には、今まで学んできた生物学の知識がぐるぐると渦巻いたが、どれも当てはまらなかった。
塊はTの存在に気づくこともなく、ただひたすらに上へ上へと、その姿を山頂の彼方へと消し去っていった。
Tはその異形が完全に視界から消えるまで、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、このまま進めば、またあの異形と出会ってしまうかもしれない。
そう思った瞬間、彼の全身に冷たい汗が流れ、背筋に悪寒が走った。
彼は一刻も早くこの山を離れなければならない。
Tは一目散に山を下り始めた。
足がもつれ、何度も転びそうになったが、彼は止まらなかった。
背後から何かが追いかけてくるような錯覚に囚われたが、振り返ってもそこにあるのは静寂のみ。
Tはただひたすらに、あの異形から遠ざかりたかった。
後日、Tは今回の調査に同行するはずだった同僚や、同じ分野の研究者たちに、今回の出来事を詳細に話したという。
彼の話は半信半疑で聞かれたが、彼自身の迫真の様子に、誰もがこの山での調査には細心の注意を払うべきだと考えるようになった。
その異形の正体は今も誰にも分かっていないという。