私の会社が入っているオフィスビルは、夜になると人気がなくなる。
最終の電車が出た後、残っているのは数えるほどの社員だけだ。
私もその一人だった。
その日、どうしても終わらせなければならない仕事があり、深夜までオフィスに残っていた。
フロアにはキーボードを叩く音と、時折聞こえる空調の音だけが響いている。
夜中の2時を過ぎた頃だろうか。
ふと背後から微かな音が聞こえた気がした。
カリ…カリ…
まるで何か硬いものを引っ掻くような、そんな音。
最初は隣の部署の誰かがまだ残っているのかと思った。
しかし隣の部署の電気は消えている。
音は途切れ途切れに聞こえてくる。
カリ…カリ…
気になって音のする方へ振り返ってみたが、廊下には誰もいない。
フロアの照明は薄暗く、静まり返っている。
「気のせいかな…」
そう思って仕事に戻ろうとした時、また聞こえた。
カリ…カリ…
今度はさっきよりも近くで聞こえた気がした。
私はそっと立ち上がり、音のする方へ歩いて行った。
音は給湯室の方から聞こえてくるようだ。
給湯室のドアの前まで来た時、音がピタリと止んだ。
私は息を潜めてドアに耳を澄ませた。しかし聞こえるのは静寂だけ。
ゆっくりとドアを開けて中を覗いてみたが、そこには何もなかった。
シンクも棚もいつもと変わらない。
「やっぱり、気のせいだったんだ…」
そう自分に言い聞かせ、席に戻ろうとしたその時だった。
背後でかすかな衣擦れの音が聞こえた。
その瞬間、私は強烈な寒気に襲われた。
電気を消して帰ろう。
そう思い、急いでパソコンの電源を落とし、荷物をまとめた。
フロアの電気を消しながら入り口に向かって歩いていると、また聞こえた。
カリ…カリ…
今度はすぐ後ろで聞こえた気がした。
恐る恐る振り返ると、暗闇の中に、ぼんやりとした白い影のようなものが浮かんでいるのが見えた。
それはゆっくりと、こちらに向かって近づいてくるように見えた。
私は悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、全力でオフィスを飛び出した。
エレベーターを待つ時間さえ惜しく、階段を駆け下りた。
外に出ると夜の冷たい空気が、熱くなった私の体を冷やしてくれた。
あれは一体何だったのだろうか…。
次の日、会社で昨夜の出来事を誰かに話そうとしたが、結局、誰にも話すことはできなかった。
きっと気のせいだと思われるだろう。
しかしそれ以来、私はどんなに仕事が残っていても、終電までには必ず帰るようにしている。
深夜のオフィスには、何か得体の知れないものが潜んでいる気がしてならないのだ。
時々、ふと、あのカリ…カリ…という音が、聞こえてくるような気がするのだ。