Tさんは高圧送電線の鉄塔点検員だった。
定期的に山中の鉄塔を巡回し、異常がないか確認する仕事で、どちらかというと単調で静かな職場だ。
ただ山奥の鉄塔は街灯も無く、日が落ちると真っ暗になる。
この日も秋が深まりつつある頃で、午後の点検は薄暗さと冷たい風が吹いていた。
Tさんが目指してる鉄塔は尾根に立っているため、送電ルート沿いに登山道を歩き、塔の足元に着いたのが午後5時を回った頃だった。
点検項目を淡々と確認していると、不意に背後の林の方から
「おーい」
と低くかすれた声がした。
思わず振り返ったが誰もいない。
野鳥かな…そう思って作業を続けようとしたところ、再び
「おーーい」
また鳥だろうか、と思ったが念の為無線を取り出し、近くにいるはずの同僚に連絡した。
「おい、今さ、誰か俺の塔に来てる?」
『いや、こっちは山道で止まってる。そっちには行ってないよ』
そう言われたあと、Tさんは塔の上部を見上げた。
夕暮れの逆光の中、鋼鉄の支柱に沿って何かが動いたように見えた。
目を凝らすと、鉄塔のアームにぶら下がっている何かがいた。
白いシャツのようなものが揺れている。
人?
一瞬、その何かと目が合った気がした。
するとそれは重力を無視するように、電線の上を這うように移動し、次の塔へ、そして森の奥へと滑るように消えていった。
腰が抜けそうになりながらも、Tさんはとにかく現場を離れた。
翌日、会社に戻ってその話を上司に報告した。
上司は一瞬だけ目を細めた後、静かに言った。
「ああ、見たんだな」
Tさんは意味がわからず顔をしかめたが、上司は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
それは古びた地図のコピーのようだった。
鉄塔が点在する山の上に、赤いペンで×印がいくつか付いていた。
その中のひとつ、Tさんが昨日登った鉄塔にも、濃く赤く、二重丸が付いていた。
「ここだけじゃないんだよ。時々点検員が声を聞くって言う場所があってね。
だいたいこの印がついたところでな。
共通してるのは…音と姿と、道じゃない所を何かが移動するってことだ」
「…幽霊とか、ですか?」
上司はかすかに首を横に振った。
「いや…違う。あれは、そういう類じゃない。
人の形はしていても人じゃない。人に似せた何かだ」
ふと、コピー地図の余白に書き込まれた文字が目に入った。
滲んで読みづらいが、こう書いてあった。
《渡リヒト鉄ノ道ヲ往ク》
《呼ビ声ニ返スナ眼ヲ合ワスナ》
「昔、この辺に住んでたじいさんがな、こっそり教えてくれた言い伝えだそうだ。
鉄の道──つまり送電線だ。
あれは昔から上を移動してたんだって」
「昔から…?でも鉄塔なんて最近で…」
「関係ない。あれは山の上を渡る何かなんだよ。
獣でも幽霊でもない。
山そのものに棲んでる、違う生き物だ。
たまたま送電線がその道と重なっちまったってわけだな」
Tさんの背筋に、ぞわりと冷たいものが這い上がった。
「…あの、昨日、目が合ったような気がするんですけど」
上司の表情がぴたりと止まった。
「本当か?」
「…はい」
しばらくの沈黙の後、上司はふぅ、と深く息を吐いた。
それから静かに言った。
「今夜、夢を見るかもしれない。呼ぶ声がしたら…絶対に返すなよ」
「返したら…どうなるんですか」
「迎えに来る。もう一度、鉄の道を通ってな」
その夜、Tさんは眠れなかった。
耳を澄ませるたび、脳裏に昨日の声が甦った。
おーーーい…
かすれた低く湿った声。
そして明け方近く、Tさんはふと気づいた。
ベランダの外、電線に何かがぶら下がっていた。
長い手足、白い服のような皮膚。
そして…顔が、ゆっくりとこちらに向いた。
目はなかった。
ただ、裂けたような口がにいっと笑い
「おーい」
…その声は耳ではなく頭の中で鳴っていた。