
Mさんがその体験を話してくれたのは、秋が深まり始めた頃だった。
それは九月末、少し肌寒い朝の単独登山の日のことだったという。
山の天気は変わりやすく、午前中はよく晴れていたが、稜線に近づくにつれて風が冷たくなっていった。
稜線の手前で一息つき、Mさんは水を飲みながら前方を見上げた。
そのときだった。
稜線の上に影が立っているのが見えた。
最初は夕日を反射した岩だと思ったらしい。
だが、よく見ると人型をしている。
ただし腕が異常に長く、左右とも地面に届くほど垂れ下がっていた。
その影がふらりと横に揺れた。
強風でよろめいたのかと思ったが、腕が空中で細長く溶けるように伸びていくのを見て、背筋が冷えたという。
腕は糸のように細くなり、ふわりと風に流されるように伸び続けていた。
実体があるのかどうかすら分からなかった。
Mさんは動けず、ただ稜線を見つめていた。
すると影の胴体がぱくりと縦に裂けた。
まるで袋が開くみたいに。
裂け目の奥は真っ暗で、その暗がりの中から小さな足のようなものがぞろぞろと地面に落ちていった。
指のように細い足が、いくつもいくつも転げ落ちるように稜線の影に散らばっていく。
人間の足とは違う。
Mさんはその場で固まり、息を吸うのも忘れかけていた。
手が震えていたが、なんとかスマホを取り出そうとした。
録画さえできれば後から確認できる。
そんなふうに思ったからだ。
しかし画面を向けようとした瞬間、影は霧になった。
もともとそこに形があったのか疑うほど、一瞬で輪郭が曖昧になり、次の瞬間には風に溶けて消えていた。
落ちていた足の群れも、いつの間にか見えなくなっていた。
その直後だった。
急に稜線に向かって霧が湧き出すように広がってきた。
最初は薄い膜のようだった霧が、ものの数十秒で視界を奪うほど白く濃くなった。
「このままじゃ道が分からなくなる」
そう直感したMさんは慌てて引き返した。
頭の奥に先ほど見た影の残像が張りついたままだった。
霧の中を進むたびに、自分のすぐ横に細長い腕が伸びてくる気がして、何度も振り返りそうになったがそれだけはできなかった。
下山道に戻る頃にはあたりは真っ白だった。
霧の中で音が吸われ、無音の中に自分の呼吸だけが響いていた。
別の気配がすぐそこにあるような、そんな感覚がずっと消えなかった。
無事に山を降りたものの、Mさんは二度とその山には登っていないという。