この話は、社会人のYさんが冬の終電後、最寄り駅を出て帰宅途中に体験した出来事。
その日は珍しく仕事が長引き、Yさんは終電ぎりぎりに飛び乗った。
無事に地元の駅に着いた頃には、すでに日付が変わっていて、周囲はひっそりしていた。
改札を出ると冷たい風が頬を刺し、街はしんと静まり返っていた。
タクシー乗り場に並ぶほどの距離でもなく、普段から歩いて帰るルートだ。
駅前を抜け、家まで向かう途中の大きな交差点に差し掛かったときだった。
向かい側にひとりの人影が立っていた。
背の異様に高い人。
街灯の下に立っているのに、顔は影になっていて見えなかった。
肩のラインが不自然なほど細く、手足は垂れ下がるように長い。
ひょろりとしているのに、どこか輪郭が人間らしくない。
Yさんは一目見ただけで「普通じゃない」と感じた。
信号は赤。
冬らしい冷たい風が交差点を横切っていった。
向かい側の高い人は微動だにせず、ただ首だけをゆっくりと傾けていた。
何を見ているのか分からない。
顔が暗く沈んでいるから表情も分からない。
青になった。だが高い人は動かない。
まっすぐ立ったまま、首の角度だけが妙に傾いたまま。
Yさんはできるだけ距離を空けて渡った。
視線を向けないようにし、スマホを見るふりをしながら横断歩道を歩く。
だが、すれ違う直前でどうしても気になり、ほんの一瞬だけ横目で確認してしまった。
するとそれはこっちを見ていた。
暗がりから浮かび上がるように、その顔がこちらへ向いていた。
目の位置らしき部分は穴のように黒い。
鼻や口の形もあいまいで、人間の顔には見えない。
Yさんは反射的に目を逸らし、歩くスピードを上げた。
とにかく離れようと、歩幅を広げて角を曲がった。
だが背後で何かが、ゆっくりと動いたような気配がした。
振り返るのは怖かった。
けれど確認しないといけないような気持ちになり、Yさんはそっと後ろを見た。
走っているわけではないが、異様に長い足をぎこちない歩幅でこちらへ向けてくる。
さっきまで微動だにしなかったのに、今は確実にYさんの方へ向かってきている。
Yさんは何かが切れるように走り出した。
夜の街を足がもつれそうになりながら必死で駆けた。
背後が気になる、追ってくる足音は聞こえない。
だがそれが余計に怖かった。
あんなに背の高いものが、どんな速度で動いているのか想像できなかった。
気配が追ってきてるような気さえする。
Yさんは体力が尽きかけるまでただ走った。
息が荒く、肺が痛むほど冷たい空気を吸い込む。
ようやく立ち止まったとき、街灯が並ぶ広めの道路に出ていた。
後ろをゆっくりと振り返る。
遠くの景色は見えているが、あの高い人の姿はなかった。
ほっとした拍子に膝が震えた。
「気のせいだったんだ」と思い込みたかった。
しかし、頭のどこかでははっきり理解していた。
あれは確かに自分を見て動き出した。
それから家までの道を急ぎ足で歩き、家に戻ったときには手がかじかんでいた。
玄関の鍵を閉めた瞬間、ようやく胸の奥に張り付いていた恐怖が少しだけ溶けた。
翌日、Yさんは同じ交差点を通勤で通った。
もちろんあの高い人はいなかった。
だが信号の真下のアスファルトにだけ、丸く黒い雨染みのような跡がひとつ残っていた。