Aさんが体験した話。
趣味の登山で一人、山を歩いていたAさんは、急に天候が崩れたため予定を変更し、地図に載っていた無人の山小屋に避難することにした。
標高も高く風雨が激しくなるなか、小屋を見つけたときは本当にほっとしたという。
中は古びてはいたが、雨風を凌げるだけで充分だった。
入口近くの棚にはカセットコンロや古いランタン、そして「登山者用ノート」が置かれていた。
そこには何年も前からの記録が、登山客たちの手で残されていた。
「山頂、最高だった!」
「吹雪で足止め。明日下山します」
――そんな何気ない記録をぱらぱらとめくっていくうち、最後のページだけ、異様な雰囲気を漂わせていた。
黒いインクで大きく、そして震えるような文字でこう書かれていた。
「外に、いる」
「小屋に、入ってくる」
「気づかれないように」
「気づかれないように」
「気づかれないように」……
繰り返される文字にAさんは思わず息を呑んだ。
悪戯かとも思ったが、書き方にどこか切実な恐怖がにじんでいる。
その夜――。
外は風が唸り、窓が時折ガタガタと鳴っていた。
寝袋に入って目を閉じていたAさんの耳に、ふと妙な音が混じった。
「…ザ…ザッ…ザリ…」
まるで小屋の周りを誰かが歩き回っているかのような、砂利を踏む音。
息を潜めていたAさんは、不意に感じた。
――窓の向こうに何かがいる。
重く、じっとりとした視線。
けれど顔を向ける勇気が出なかった。
目を開けたらそれはそこに「いる」と確信してしまいそうで。
翌朝。
空は晴れていた。
だが小屋を出たAさんは、窓の外の地面に複数の足跡がはっきりと残っているのを見た。
ぐるりと小屋を囲うように――。