私の友人のSさんは絵を描くのが好きで、よく公園やカフェでスケッチをしている。
ある日の午後、Sさんはいつものように近所の公園で、ベンチに座って風景を描いていた。
穏やかな日差しが降り注ぎ、鳥のさえずりが聞こえるごく平和な日常だった。
Sさんは公園の噴水と、その周りで遊ぶ子供たちを描いていた。
集中して筆を動かしていると、ふと視界の端に何かが見えた気がした。
それは噴水の向こう側にある大きな木の影の中に、薄い灰色の人影が揺らめいているように見えた。
まるで薄い煙が風に揺れているかのようだ。
Sさんは一瞬目を疑った。
Sさんは目を凝らしたが、影はすぐに木の幹に溶け込むように消えてしまった。
気のせいかと思い、もう一度スケッチに集中しようとした。
その時、Sさんの使っているスケッチブックのページが、ペラリと一枚めくれた。
風もないのに不自然なめくれ方だった。
「あれ?」
Sさんは、めくれたページを元に戻そうと手を伸ばした。
するとそのめくれたページには、先ほどまで描いていた噴水の絵が、なぜか一部分だけ真っ黒に塗りつぶされていた。
まるで誰かが上から墨を垂らしたかのように。
Sさんはゾッとした。自分でそんなことをした覚えはない。
周りを見渡しても、近くには誰もいない。
「おかしいな…」
Sさんはそのページを破り捨てようかと思ったが、なんとなく気が進まなかった。
結局そのままスケッチブックを閉じ、公園を後にした。
その夜、Sさんは自宅の机で別の絵を描いていた。
昼間の出来事は、単なる気のせいだろうと自分に言い聞かせていた。
しかし夜遅く、ふとスケッチブックが目に入った。
Sさんは何となく、あの黒く塗りつぶされたページが気になり、再び開いてみた。
すると昼間は真っ黒に塗りつぶされていたはずの噴水の絵が、見る角度を変えるたびに、まるで血のような赤黒い色に変化して見えた。
まるでその絵が生きているかのように、不気味に蠢いているかのようだった。
Sさんは、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
その赤黒い部分の奥から二つの黒い穴が、じっとSさんを見つめているように感じた。
それは闇そのものが凝縮されたような、深い深い黒い穴だった。
Sさんはその穴の奥に、吸い込まれていくような恐ろしさを感じた。
翌日、Sさんはそのスケッチブックをゴミ袋に入れ、家の前のゴミ捨て場に捨てた。
数日後、Sさんがいつものように公園でスケッチをしていると、またあのベンチに座った。
するとふと視界の端に、薄い灰色の影が揺らめいているのが見えた。
Sさんは恐る恐る目を凝らした。
すると大きな木の影の中から、ゆっくりと薄い灰色の人影が姿を現した。
それは紛れもなく、あのスケッチブックの中にいたような、曖昧な輪郭の影だった。
そしてその影の顔には、やはり黒い穴が二つぽっかりと開いている。
Sさんは全身から血の気が引いた。
その影はSさんの方にゆっくりと近づいてくる。
一歩、また一歩と、地面を踏みしめる音はしないのに、確かにその影はSさんの目の前に迫ってきていた。
Sさんは動けなかった。
金縛りにあったように、体が全く動かない。
そしてその影がSさんの目の前に立つと、ゆっくりと手を差し伸べてきた。
その手もやはり曖昧な輪郭で、指の先が微かに揺らいでいる。
Sさんの視線は、その手のひらに釘付けになった。
手のひらの真ん中には、なぜか真っ黒に塗りつぶされた小さな噴水の絵が描かれている。
その絵がSさんの顔とスケッチブックを同時に見るように、見る角度によって赤黒く変化し、その奥から二つの黒い穴が、じっとSさんを見つめていた。
その二つの黒い穴は、Sさんの視線を絡め取るように、深く、重く、Sさんの精神を削り取っていく。
Sさんは呼吸すら忘れて、ただその穴を見つめることしかできなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
Sさんの意識が薄れかけたその時、背後から突然、「Sさん!」と呼ぶ声が聞こえた。
それは同じ絵の仲間であるTさんの声だった。
その声にハッとしたSさんが慌てて振り返ると、Tさんが心配そうにSさんの顔を覗き込んでいた。
「どうしたんだ、Sさん。顔色が悪いぞ」
Tさんの声に、Sさんはようやく現実に戻ることができた。
Sさんが慌てて正面を向くと、そこにあの影の姿はなかった。
ただ、静かに噴水の水が上がる音だけが聞こえてくる。
SさんはTさんに何も話せなかった。話してもきっと信じてもらえないだろう。
そしてあの影が本当に消えたのか、それともただ姿を消しただけなのか、Sさんには分からなかったからだ。
それ以来、Sさんは公園でスケッチをすることはなくなった。
自分のスケッチブックを開くたびに、どこか遠くであの黒い穴がじっと自分を見つめているような気がするという。