Hさんが体験した話。
夏の終わり、Hさんは家族を連れて、山間にある老舗旅館へ泊まりに出かけた。
木造三階建てのその旅館は昔ながらの建物で、少し年季が入ってはいたものの、館内は清潔に保たれており、何より静かで落ち着いた雰囲気が気に入ったという。
その夜、風呂から上がって一息ついた頃、子どもが「探検してくる」と言って部屋を飛び出していった。
Hさんは最初こそ微笑ましく見送っていたが、しばらくしても戻ってこないことに気づき、廊下へ出て名前を呼びながら探し始めた。
長い廊下を進み、角を曲がった先――右手にひとつだけ開いた扉があり、子どもの姿がその中に吸い込まれていくのが見えた。
「ちょっと!戻っておいで!」
慌てて追いかけてその部屋の戸を開けたHさんは、思わず息を飲んだ。
そこにあったのは畳が黄ばんで崩れかけ、壁は薄くカビに覆われたまま放置された、明らかに使われていない一室だった。
押し入れも開きっぱなしで、埃が舞い上がるほどだったという。
「え?今、ここに…」
中を見渡したが子どもの姿はなかった。
音も気配も、まるで最初から何もなかったかのように静まり返っていた。
混乱しながら戸を閉めたとき、背後から「おかあさーん!」という声がして振り向くと、子どもは旅館の反対側の廊下から駆けてきた。
「あっちにいたの?」
「うん、あっちにいたよ?」
Hさんは自分の見間違いかとも思ったが、どうにも気になって、翌朝のチェックアウト時に女将にその部屋のことを尋ねてみた。
「昨夜、こういう場所の角を曲がったあたりの部屋なんですが…中に入ったら誰も使っていないような…」
すると女将は少しだけ目を細め、申し訳なさそうに笑った。
「お客さま、たぶん何かの勘違いですよ。
うちはあの階、角を曲がった先にはお部屋はないんです」
「え?でも確かに扉を開けて…」
「そちらには壁しかないはずです」
Hさんはそのあと、改めて見に行く勇気は出なかったという。
あの夜、自分が開けたあの扉――あれは本当に“この世の旅館”の部屋だったのだろうか。