それは連日の猛暑が少しだけ和らいだ、九月の終わりの夕方のことだった。
配送業を営むHさんは、その日、最後の一軒を回っていた。
お届け先は、古びた住宅街の突き当たりにある、築年数の分からぬほど古いアパート。
「…おかしいな」
Hさんは首を傾げた。
その部屋の前に行くのは、今週で三度目だった。
毎回チャイムを鳴らしても応答はなく、ドアのポストには自分が昨日入れたはずの「不在連絡票」が、差し込まれたままの手付かずの状態で残っている。
普通なら住人が帰宅すれば気づくはずだ。
それなのに昨日も、一昨日も、不在票はミリ単位も動いていない。
「…失礼します」
Hさんは今日分の不在票を書き込み、ポストの隙間に差し込もうとした。
その時、指先に何か違和感を覚えた。
ポストの口から何かが溢れ出している。
最初は溜まったチラシか何かだと思ったのだが、よく見るとそれは大量の「不在票」だった。
自分が書いたものだけではない。
他社の運送会社、郵便局、さらには何年も前の日付が印字された、黄ばんでボロボロになった連絡票。
それらがポストの中で、まるで「中身」を隠すように、ぎっしりと詰め込まれていた。
Hさんは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
これだけの不在票が溜まっているということは、この部屋の主は、一体いつから…。
その時だ。
ガタッ。
ドアの向こう側で何かが倒れるような音がした。
続いてカサカサと、乾いた紙が擦れ合うような音が聞こえてくる。
(誰かいるのか…?)
Hさんは、吸い寄せられるようにドアのレンズ(覗き穴)に目を向けた。
本来、外側から中を覗き見ることなどできないはずだ。
レンズは光を遮り、ただの黒い塊としてそこにある。
だが、その時のHさんは違った。
まるで「向こう側から招かれている」かのような、奇妙な感覚に抗えなかったのだ。
指先でレンズの縁をなぞる。
冷たい金属の感触。
Hさんが片目をレンズに押し当てた、その瞬間。
視界が真っ白に染まった。
中が見えないどころではない。
レンズの向こう側から、「強烈な光」が溢れ出していたのだ。
まるで部屋の中に太陽でも閉じ込めているかのような、刺すような白。
そしてその光の渦の中から、ゆらりと「指」が現れた。
それは人間のものとは思えないほど細長く、紙のように白い指だった。
その指がレンズの内側から「トントン」と、ガラスを叩く。
直後、ポストの隙間から先ほどの不在票がすうっと戻された。
Hさんは弾かれたように顔を離した。
さっきまで白光していたはずのレンズは、今はただのどろりと濁った黒いガラスに戻っていた。