今回、重い口を開いて体験を語ってくれたのは、都内のIT企業に勤めるSさん(30代女性)。
一昨年の秋、仕事の疲れを癒やすために、彼女は北関東の山深くにある一軒の温泉宿を訪れた。
その宿は川のせせらぎと深い木々に囲まれた、風情ある老舗旅館だった。
Sさんが案内されたのは、母屋から渡り廊下を通って数分歩く、独立した離れの客室。
「少し冷えますから、暖房を強めにしておきますね」
仲居さんはそう言って去っていったが、部屋に入った瞬間から、Sさんは奇妙な違和感を覚えていた。
外は紅葉が美しい、穏やかな秋の夕暮れだ。
しかし、部屋の一歩足を踏み入れると、そこだけがまるで真冬のように凍てついている。
エアコンの設定温度を最大の30度にし、備え付けの古いガスストーブも点火した。
ゴーッという音を立てて熱風が吹き出すが、不思議なことに、Sさんの肌に届くのは冷たい風ばかりだった。
「故障かな…?」
そう思ったが、フロントに電話をするのも億劫になり、彼女は早々に温泉に浸かり、布団に潜り込むことにした。
熱い湯で温まったはずの体は、布団に入って数分もしないうちに、芯から冷え切っていく。
吐き出す息は、室内だというのに白く濁っていた。
深夜2時を過ぎた頃。
あまりの寒さにSさんは目を覚ました。
部屋の隅、暗がりに置かれた大きな姿見の鏡が、月光を反射して青白く光っている。
ふと見るとその鏡面が、まるで冬の窓ガラスのように真っ白に曇り、縁の方からはバリバリと氷の結晶が這い出していた。
(室内で鏡が凍るなんて…)
異常な光景に、彼女は吸い寄せられるように鏡の前へと這い出した。
震える指先で凍りついた鏡の表面を、円を描くようにそっと拭う。
冷たい感触が指に伝わり、視界が拓けた。
鏡の中に映っていたのは、自分自身の姿ではなかった。
そこには、ボロボロの古びた着物を着た一人の老人が、部屋の真ん中でうずくまっていた。
老人の顔は乾燥した土のような茶色に変色し、落ち窪んだ眼窩の奥には、濁った瞳がこちらをじっと見据えている。
そして何より恐ろしいのは、その老人が畳に落ちているSさんの影を、両手と両足で必死に押さえつけていることだった。
老人が影を強く踏みつけるたび、Sさんの足先から感覚が消えていく。
鏡の中の老人は、まるで彼女の体温を影から吸い取っているかのように、喉を「ゴク、ゴク」と鳴らしていた。
現実の部屋の中には誰もいない。
しかし、鏡の中では老人が彼女の影を貪り続けているのだ。
パキッ、という乾いた音がした。
見ると鏡の中に映る畳が、老人の周りから真っ黒に変色し凍りついていく。
その黒い霜は影を通じて、現実のSさんの足元まで這い寄ってきていた。
「やめて…!」
声にならない悲鳴を上げ、彼女は鏡を背にして部屋を飛び出した。
裸足のまま渡り廊下を駆け抜け、母屋のフロントへ転がり込んだ。
夜勤のスタッフが驚いて駆け寄ってきたが、彼女の顔を見るなり絶句したという。
「お客様、お足元が…」
スタッフが指差した先。
Sさんの足首から下は、まるで数時間も氷の中に漬けていたかのように、死人のような白さに変色していた。
そして旅館の明るい照明の下だというのに、彼女の足元には影が一切なかった。
事態の異常さを察した宿の主人は、顔を青くしながらも、すぐに彼女を大浴場へと促した。
「いいですか、とにかくお湯に浸かってください。
熱くても我慢して足の芯まで温めるんです」
震える肩を抱えられ、彼女は深夜の誰もいない湯船に身を沈めた。
42度を超えるはずの熱い湯。
立ち込める湯気。
それなのに、湯の中に浸かった彼女の足先だけは、まるで氷の塊を抱えているかのように冷たいままだった。
主人はその間、離れの部屋から彼女の荷物をすべて運び出し、母屋にある予備の客室へと無理やり移動させた。
「今夜はここで休んでください。離れにはもう近づかないようお願いします」
翌朝、別のスタッフと共に離れの部屋を確認したが、鏡の中には老人の姿はなかった。
ただ、Sさんが寝ていた布団の周りの畳だけが、手で触れると痛いほどに冷たく、そこだけが異常に乾燥して「カサカサ」と音を立てて崩れたという。
Sさんはその後、一週間ほど高熱にうなされ、今でも冬になると、自分の影が時折薄くなるような感覚に襲われる。
「あの老人は今でもあの鏡の中で、誰かの『温もり』が来るのを待っているのかもしれません」
山あいの静かな宿。
もし案内された部屋が、暖房をつけてもなお冷え切っていたら。
不用意に鏡を拭ってはいけない。
あなたが取り戻した視界の先に、自分の温度を奪おうとする誰かが潜んでいるかもしれないから。