Yさんが大学時代の友人たちと、山奥の温泉旅館へ出かけたのは夏休みの終わりごろだった。
古い旅館を見つけたのは、地理学を専攻している友人のKさんが「昔ながらの湯治場を見てみたい」と言い出したのがきっかけだった。
電車を乗り継ぎ、さらにバスで一時間以上。
携帯の電波も届かない山あいの道を抜けると、霧の中にその旅館が姿を現した。
木造二階建ての建物は、長い年月の風雨に晒されながらもどこか荘厳な雰囲気を保っていた。
瓦屋根は黒ずみ、正面の玄関には「湯の庄」と書かれた古びた看板が掛かっている。
バスを降りたYさんたちは、しばらくその旅館を眺めていた。
ふとKさんが、「あれ、誰かいる」と指をさした。
見ると二階の廊下の窓に、随分古い見た目の着物を着た人影がゆっくりと横切っていくのが見えた。
ゆったりとした動きで、頭を少し下げながら歩いている。
「宿の人だろ」とYさんが笑い、他のメンバーも特に気にする様子もなかった。
旅館の中は古いが手入れが行き届いていた。
木の床は艶を保ち、天井からはほのかな木の香りが漂っている。
部屋に案内してくれた仲居さんは、年配の女性でどこか静かな口調だった。
夕食を済ませた後、夜の九時を過ぎた頃にYさんは大浴場へ向かった。
館内は音がよく響く。
誰もいない廊下を歩くと、足音がどこまでも続くように反響した。
風呂場の扉を開けると、湯気がふわりと流れ出る。
洗い場には古びた鏡がずらりと並んでいたが、端の一枚だけ他とは違って枠が黒ずみ、ガラスの一部がわずかに歪んでいた。
体を洗っていた時、Yさんはふとその鏡に目をやった。
湯気のせいでうっすらと曇っていたが、自分の姿の隣に誰かが座っているのが映っていた。
髪の長い人影。
肩から背中にかけて、濡れた髪が肌に張り付いている。
え?女性!? 驚いて横を振り向いたがそこには誰もいない。
鏡の中には確かにいるのに、実際の洗い場にはいないのだ。
Yさんはぞっとして立ち上がり、慌てて湯船に入った。
だがその瞬間、鏡の中のそれがゆっくりと動いた。
泡立てた手で髪を撫で、まるで頭を洗っているように見えた。
しばらくして動きを止め、鏡越しにこちらを見た。
顔は湯気に滲んでよく見えない。
けれど確かに目だけがこっちを見ているようで、曇った鏡の奥からじっとYさんを見つめているようだ。
Yさんは湯から飛び出すように脱衣所へ逃げ出した。
誰もいないのに、足元から水音が追いかけてくる気がした。
部屋に戻ると友人たちがトランプをしながら酒を飲んでいた。
事情を話すと、「それただのそういう人だったんだろう」と笑われた。
時間が経ち、夜も更けてきたころ。
友人たちが「怖い話でもしようか」と言い出した。
部屋の電気を落とし、常夜灯だけにして布団の上で話を始めた。
順番に怪談を話していき、最後にYさんが例の風呂の出来事を語り出した。
語り終えた直後だった。
━━ぴちゃっ。
廊下の方から濡れた足が床を踏むような音がした。
皆が一斉に顔を見合わせる。
「…今の何?」
ぴちゃっ、ぴちゃっ。
ゆっくりと近づいてくるような間隔で音が続く。
やがて床板を軋ませるような微かな足音も混じった。
「誰か見てきてよ」とKさんが囁いた。
誰も動けない。
結局、好奇心の強いSさんが意を決して立ち上がり、旅館のドアを開けた。
すると━━廊下には誰もいない。
ただ、畳の上に濡れた足跡が点々と続いていた。
足跡は、風呂場の方向からこちらに向かって伸びており、途中でふいに途切れていた。
「…誰かが風呂上がりに歩いたんだろ」
そう言って無理に笑おうとしたが、誰も納得していなかった。
その夜は結局、電気をつけたまま全員で眠ったという。
翌朝。
朝食を運んできた仲居さんに、Kさんが何気なく尋ねた。
「昨日、他のお客さんも泊まってたんですか?」
仲居さんは首を傾げ、「いえ、昨夜はお客様方だけですよ」と穏やかに答えた。
その言葉を聞いた瞬間、Yさんは箸を持つ手が止まった。
障子越しに差し込む朝の光が、なぜか少し白く濁って見えたという。
━━あの鏡に映っていた人、廊下を歩いていた人は一体誰だったんだろうか。